AAR/フランク帝国物語

第一章 シャルル7世 ~勝利王の外交政策~

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シャルル7世 勝利王(在位:1422-1474)

フランク帝国思想の始まり

1337年に始まった百年戦争に勝利と終戦の兆しが見えたことによりフランス国内では歓喜の声が響き渡っていた。そしてそれはフランス宮廷内でも同じことであった。しかしある出来事が一時宮廷を騒がせるに至る。1444年12月11日、ノルマンディーの戦いでの勝利の知らせを受けた、時のフランス国王シャルル7世はこの戦争での勝利を確信し、戦後のブルゴーニュ公国への対応を検討するため官僚たちを招集し玉座へと向かった。玉座の間にたどり着いた国王はかつてないほどに驚愕したと言う。玉座の上には淡い青色の髪をした人の首だけのようなものが座っていた、いや乗っていたのだ。この生き物は堂々と王冠を戴いており、背後には神聖なる威光のようなものが見えていた。この生き物は自らを「世界に冠たる皇帝」と称し、シャヤカ=ハーン大帝と名乗った。困惑していたシャルル国王ではあったが、この大帝の発した一言でその動揺は払拭された。

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「我らがフランスに楯突いたブルゴーニュは許せないよ。世界に冠たる皇帝は朕だけだけど、ブルゴーニュに制裁を食らわすためにまずはオーストリアと同盟するよー。」

シャルル国王は信心深かった。このことが後のフランスにとって吉と出るかは判らないが、この言葉を受けたシャルル国王はかの生き物を神聖なる神の使い、フランスの守護精霊と祭り上げた。これをきっかけに以後フランス王室はシャヤカ=ハーン大帝を中心とする統治体形を取ることとなる。シャヤカ大帝の理念は専ら「フランク王国の再建」であり、フランク王国のかつての最大版図を再びフランス王国の下に統一するというものであった。またフランク王国の再建は同時に西ローマ帝国の復興を意味し、当時西ローマ皇帝を名乗っていた神聖ローマ帝国は当然この思想とぶつかるものであった。シャヤカ大帝はフランク帝国思想の下ピレネー山脈南部のふもと一帯の直轄統治をも目論んでいた。大帝は対ムスリム、対フランスの下にカスティーリャ=アラゴン連合が発足する事を予見し、この地の早期奪取に重きを置いた。

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ノルマンディーの戦い。最早この戦争が圧倒的にフランスに傾いていたことは誰の目にも明白であった。
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シャヤカ大帝の唱えるフランク帝国思想。この範囲を直轄統治するものとする。

二国標準主義と百年戦争の終結

しかし攻撃的な外交政策を好まなかったシャルル7世はこのフランク帝国思想を公とする事はなく、外交的には仮想敵国をブルゴーニュ公国とアラゴン王国の二国に絞った。この二国を包囲すべくシャルル国王はカスティーリャ王国と時の神聖ローマ皇帝であるオーストリア大公国との同盟締結を目指した。またナヴァラ王国にも歩み寄り、この地を平和裏に勢力下に収める事に成功した。時を同じくしてオーストリア大公及び神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国が領有権を主張するネーデルラント一帯を領有していたブルゴーニュ公国への侵攻を目論んでいた。またカスティーリャ国王のフアン2世も西地中海での覇権を唱えアラゴン王国を敵視していた。この状況はフランスにとっては最良のものであったと言えるだろう。シャルル国王は百年戦争終結ののちアラゴン及びブルゴーニュへの侵攻を約束し、オーストリア・カスティーリャ両国との同盟締結にこぎつけた。最もこの状況に落胆したのはブルゴーニュ公国の善良公フィリップ3世であった。かつて彼はイングランドとの同盟関係を維持しヴァロワ家と敵対してきたが、この同盟を破棄するかわりにフランク王国と和平し、以後はフランスと対等かつ平和的な外交を期待していたからである。シャヤカ大帝の思惑通りカスティーリャ、オーストリア両国はフランスとの同盟を履行しイングランドに対し宣戦を布告し、戦局は終始フランス優位のまま進んだ。ブルゴーニュ公国ではフィリップ善良公が失意のうちに亡くなり、狡猾公チャールズ1世が後を継いだ。チャールズ狡猾公はこのイングランドの劣勢を見ると直ちにイングランドに対し宣戦を布告し、カレーを奪取した。1450年、シャルル国王はボルドー・ノルマンディ一帯をイングランドから割譲させる事で和平し、イングランドは大陸の領土を完全に失い百年戦争は終結した。

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シャルル7世は武力に頼らずにナヴァラを勢力下に収めることに成功している。
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またカスティーリャ・オーストリア両国との同盟締結を成し遂げたことも彼の大きな実績の一つである。

ピレネー侵攻

シャルル7世はフアン2世との約束を忠実に守った。国王はイングランドとの和平直後、返す刀でアラゴン王国に対し宣戦を布告した。アラゴン王国はフランスの動きは常に警戒していたようだが、同じトラスタマラ家が支配するカスティーリャ方面からの攻撃は全くの想定外であったのだろう。北と西から挟撃される形となったアラゴン軍は規律が乱れ瞬く間にイベリア領土の全土を制圧された。またこの戦争ではオーストリアのフリードリヒ3世も援軍を派遣しており、フランスとの同盟の堅実さと対ブルゴーニュ侵攻の約束を再確認した。アラゴン王国はフランスに対し全面的に降伏し、イベリア南部をカスティーリャへ、ピレネー山脈南部をフランスへ割譲し和平した。シャルル国王はこの地をフランス王国に従属するナヴァラ王国と フォア伯領の間で分割統治させた。

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ピレネー侵攻後のアラゴン王国。シャヤカ大帝が提唱するイベリア半島での勢力圏を僅か一戦で手に入れた。

クリミアのジェノバ侵攻

フランスがピレネー侵攻を完了させたとの知らせを受けたブルゴーニュ公国はフランス=オーストリア同盟の侵攻を恐れ混乱していた。チャールズ狡猾公は51連隊の兵を集め公国の存亡をかけた戦いに備えていた。しかし彼にとっては幸運か、ブルゴーニュの決戦の日は先送りにされる事となった。クリミア汗国がオスマン帝国を率いてジェノバ領に侵攻を開始したのである。神聖ローマ皇帝であるフリードリヒ3世はこれを保護すべくジェノバ側に立って参戦した。さらにこの帝国の混乱に乗じドイツ騎士団はポメラニア領に侵攻を開始し、フリードリヒ3世は同盟国フランスに参戦を要求した。衷情なシャルル7世はこの参戦要求に応え、援軍を派遣しようと試みたが、これはシャヤカ大帝により阻まれた。シャヤカ大帝はオーストリアとの同盟はあくまで対ブルゴーニュ戦を前提とする物であり、神聖ローマ帝国の戦争には関与する必要はないとした。またフランス=オーストリア同盟の成立によりこちらの動向を注視しているであろうブルゴーニュを目前として、フランス本土を手薄にするべきではないと考えた。シャルル国王はしぶしぶこれに同意し、援軍の派遣を断念した。フランスはオーストリアがこの戦争を終結させるまでは内政の強化に尽力し、ナヴァラを除くフランス南部を直轄統治することに成功した。またフリードリヒ3世はこの帝国防衛戦争を通して神聖ローマ諸侯の結束をより強固なものとし、帝国改革の実施に乗り出した。

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シャヤカ大帝は神聖ローマ帝国の結束を警戒し始めた。

薔薇戦争の終結

イングランドではエドワード6世の没後、プランタジネット朝が断絶しヨーク家とランカスター家による王位継承を巡る薔薇戦争が勃発していたが、この内戦は百年戦争でも活躍していた将軍家であるフェアファックス家により平定された。この内戦を平定したガイ=フェアファックスがイングランド王ガイ1世として即位し、ここにフェアファックス朝が成立した。シャルル7世はイングランド王国の伸長を警戒し、スコットランド王ジェームズ2世と接近し、対イングランド同盟の締結に成功している。またシャルル国王はこの間に、対イングランドを唱えフランス周辺諸侯の統制にも努めており、アヴィニョンとアンジューをその直轄領とした。

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プランタジネット朝は断絶し、薔薇戦争を収めたフェアフェニックス家が新たにイングランドを収めることとなる。
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フランス王国の中央集権化の動きが伺える。

ブルゴーニュ侵攻

オーストリアが対外戦争の混乱を収めたのを見計らうと、シャルル国王はフリードリヒ3世との約束を守るべくブルゴーニュ侵攻への準備を開始した。カスティーリャのヨハン2世は当初この侵略戦争への参加には消極的であったが、シャヤカ大帝は狡猾であった。大帝はシャルル国王に対してブルゴーニュ公国にではなく、その同盟国であるブルターニュ公国へ宣戦するよう促したのだ。こうしてフランスは兼ねてよりビスケー湾での覇権を策していたカスティーリャをもこの戦争に巻き込むことに成功したのである。シャルル7世はその統治の当初からブルゴーニュ公国への対応に悩ませられ続けてきたが、彼の堅実なる同盟政策と、シャヤカ大帝の英明かつ狡猾公以上に狡猾な指揮によりブルゴーニュ勢力に対して倍以上の戦力を揃え開戦に臨む事に成功した。1474年8月14日、シャルル7世国王は次の後継者であるルイ=ヴァロワにブルゴーニュからフランドルを独立させ、ブルゴーニュ公国の力を削ぐとともにフランドルの地を神聖ローマ帝国の勢力下から分離させる事を約束させ息を引き取った。享年71歳のことであった。同日、父であるシャルル7世の死を受けルイ11世がフランス国王として即位した。ルイ国王は父との約束を守り、ブルターニュ、ブルゴーニュ両公国の全土を制圧するとブルゴーニュとはフランドルを独立国とする事で分離和平し、ブルターニュからは半島北半を割譲させる事でこの戦争を終結させた。ルイ国王はこの戦争に全面的に勝利したが、この勝利は戦前の父シャルル7世の外交努力なくしてはなり得なかったと宣い、シャルル7世を「勝利王」として讃えた。

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この戦争はシャルル7世の外交的勝利であったといえるだろう。
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フランク帝国思想実現への橋頭堡を築いたシャルル7世は71歳で崩御された。

おわりに

しゃやか=はーんの休日

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今回のAARはメインページにもあるように伝記式のAARを書いてみようと思って挑戦したよー。

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でもなにこれ、超読みづらいと思うんですけど・・・。

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せめて画像をもっと自由な場所に張り付けられたらいいなぁ。文の右横とか。
プレイとしては何ら目立ったことはしないよー。一応フランク王国の最大版図の再現が第一目標だけど、プレイングは下手なので至って普通のプレイになると思います。

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実績のためでもないと。じゃあ一体何のためにフランスAARなんか始めたんですかねぇ。ペルシアも途中なのに。

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どうしてもこの形式のAARが書きたくなってしまってね。そうなると周辺国家がひしめき合う欧州がいいかなーと思ってね。ヨーロッパユニバーサリスだしね。あとタバリスタンで死にまくったから俺TSUEEEEプレイがしたかったんです。後悔はしていない。

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あとこれを言ったらまた不幸自慢みたいでいやだけど、カスティーリャ・オーストリアには大抵どちらか、もしくは両方にライバル視されているのが普通だよー。でも30回くらいリセマラしたらやっと両国がハートマークになったからスムーズなプレイを目指してる人はリセマラ頑張ってみるといいよー。タバリスタンと違ってプレイ開始すぐにダメならリセットできるからメンタル的にも辛くないよー。

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ところで私最後で死にましたけどまさか次回からはお役目ごめんですかね?

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当たり前だよ。次回のこのコーナーはルイ11世君に担当してもらうよ。それじゃあ次回までゆっくりしていってね☆

シャルル7世治世下の世界地図(1474年)

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ハンガリーが早くも瀕死な事以外まだ目立った動きはありませんね。このまま順調に行けるといいなぁ。Ver1.9もう出るらしいですね。いい加減女真族>モンゴル部族にしてほしいですね。

第二章 ルイ11世~慎重王のブリテン侵攻~


添付ファイル: file373.jpg 240件 [詳細] fileMAPc7.png 274件 [詳細] filec7.jpg 189件 [詳細] file392.jpg 183件 [詳細] file391.jpg 231件 [詳細] file383.jpg 239件 [詳細] file390.jpg 259件 [詳細] file377.jpg 249件 [詳細] file374a.jpg 228件 [詳細] file374.jpg 75件 [詳細] file366.jpg 234件 [詳細] file364.jpg 273件 [詳細] file381.jpg 274件 [詳細] fileCharlesVII.jpg 176件 [詳細] filey.jpg 181件 [詳細]

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Last-modified: 2014-11-30 (日) 08:02:50