AAR/偽史朝鮮

朴氏朝鮮 その3

朴礼(1590~1644)

暁の後を継いだのは王子・礼(イェ)でした。(3/5/4)
暁の時代、ついに一度も刃を直接交えることなく明の冊封下を脱した朝鮮ですが、世界一の国力を誇る明に隣接している以上は常に再征服の脅威にさらされています。
朝鮮の民が安心して眠るために、いつかは明と雌雄を決さなければなりません。
礼に課された難題を解く鍵は、思わぬ形でもたらされました。

 

チンギスの後継者

16世紀初頭の永昌の北伐を最後に朝鮮の目は海の向こうへと転じ、ステップ・高原地域の動向には最低限の注意しか払ってきていませんでした。
決して豊かとはいえないこれらの地域がどうなろうと、朝鮮領にちょっかいをかけてきさえしなければそれでよいというのが貞心以降の朝鮮のスタンスだったのです。
遊牧民たちは相争い、その勢力図はめまぐるしく塗り替えられ続けていました。

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(図は1545年の西方の図。KHALKHAは朝鮮の属国)

1591年、即位間もない礼のもとに一通の報告が届けられます。
遊牧民が明の国境に頻繁に出没し、明の人心が荒れ始めているというのです。
驚いた礼はこれまで顧みられてこなかった西方情勢についての報告書をまとめ直すよう官僚に指示を飛ばします。
改めて明らかになった事情は以下のようなものでした。

16世紀中ごろ、相争う遊牧民の中からひとつの勢力が台頭してきました。
その名はチャガタイ汗国。チンギスハンの次男、チャガタイを祖とする遊牧国家です。
天山山脈周辺に勢力を持っていたかれらは東方へ勢力を伸ばしはじめ、1570年代には明に朝貢していたホルチン部をも打ち破ってステップ地域の覇権をその手に収めていたのです。

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明と国境を接するようになったチャガタイはその後たびたび国境地域を襲撃し、遥か父祖の時代から遊牧民に脅えてきた明の民の心に不穏な予感が漂い始めます。
明が本気を出しさえすれば西方に軍を派遣してチャガタイを服属させることは容易かったことでしょう。
しかしながら長年の繁栄を享受してきた明の宮廷には名乗りを上げる者はいませんでした。
チャガタイの本拠地は遥か西の果て。長く苦労も多い遠征の末に、帰ってみれば都に残った政敵の讒言で地位を失っていた……
そんな未来を思い描き、見て見ぬふりをする者ばかりだったのです。
あるいは都の栄華に目が眩み、本当に危機が見えていなかったのかもしれません。

遅ればせながらこれらの事情を知った礼は、急ぎチャガタイに使者を派遣し同盟を結びました。
これにより明の高官たちの腰はますます重くなり、西方からの訴えに耳を傾ける者はいなくなります。
その一方でオスマンとの面子争いは気になるようで、当時オスマンと争っていた西欧各国には多額の資金援助を行っています。
(ヴェネチアへは1358Dもの借金を肩代わり。その他3ケタの資金援助も多数)
各国から贈られる感謝の使節は皇帝のプライドをいたく満足させたようですが、困窮する民の声は彼の耳に届かなかったのです。
明はその内側から腐り始めていました。

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(今回のプレイで明がチャガタイを朝貢国にせずdisasterの発生に至ったのは運がよかったとしか言いようがないが
 遊牧民国家が大国化した時点で同盟を結ぶなどすれば意図的に発生させることができるのではないか)

 

虎視眈々

明の宮廷が腐り果てるのを待ちながら、礼は先王の征服行を継いで朝鮮の国力を充実させてゆきます。

1591年にはスンダ王国を滅ぼしてついにジャワ島全土を制圧。
また1594年、メキシコ方面の原住民から土地を奪い、植民地国家・KoreanMexicoとして自治を始めさせました。
メキシコではさらに周辺地域にも侵略の手を広げ、多数の金山を支配下に置きます。
次いで1601年、KHALKHAを直轄領として統合するとともに、日本を侵略して6州を領有しました。

さらに1609年には西洋から伝わった活版印刷技術を全土に広めます。(50%軽減)
これにより朝鮮の技術力は格段に向上し、明をも上回りました。(17/16/17)

 

ときはいま・・・

礼の即位から20年。
朝鮮の国力が高まり続ける一方で、明の巷には怨嗟の声が満ち、国境地域では朝鮮による統治を望む声までが上がり始めていました。

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(1エリア全体にClaimを獲得)

1610年8月、この国境地帯に朝鮮の全軍が集結していました。
その数15万5千。彼らは礼の号令とともに北京に殺到しました。

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明の総兵力はおよそ29万。
朝鮮軍のほぼ倍であり、また歴代磨き上げられてきた武将たちの統率力も見事なものです。
(明は規律110%→戦争中にQualityもコンプリートして115%に)

しかし兵の大半は困窮する農村から無理やり徴発された者たちであり、腐り果てた国のために命を張ろうという気概を持ったものは皆無でした。
いかに将が叱咤したところで、いったん不利と見るや兵たちは雪崩を打って逃げ散ってしまいます。
(天命0=shock/fireダメージ50%増のペナルティ)
明は広い国土に散った兵を必至に北京へと集めますが朝鮮軍はこれらをすべて撃退します。
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(初戦。首都防衛隊はアンバランスすぎる兵力配分)

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(皇帝直卒の軍も撃退。皇帝なにげに有能)

結局北京は4か月も持たずに朝鮮の手に落ちました。
その後も朝鮮は進軍を続け、各地で明軍を壊滅・潰走させてゆきます。
開戦から3年、明軍を散々に叩きのめした朝鮮は、北京、瀋陽(要塞)、山東半島周辺部、そして海南島の一部割譲と1128Dの賠償を条件に停戦に応じました。
礼は漢族の有力者に山東半島周辺部を与え、間接統治とします。この国は斉と名乗りました。
北京を失った明は揚州に遷都します。

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打落水狗

いったんは矛を収めた礼ですが、朝鮮の末永い安寧を考えればここで手を止めるなどという選択肢はありません。
直接統治下に組み込んだ北京の治安に目途が立つやいなや、礼はホルチン部に宣戦します。(コア化の完了を待った)
ホルチン部の宗主国である明は、余力はどうあれこれを座視できません。
渋々参戦しますが、これこそ礼の思う壺。再び打ち据えられ、手出し無用を誓わされます。(白紙和平。停戦期間5年短縮)
1616年、ホルチン部は朝鮮に完全併合されました。

1617年、九州四国を治める菊池氏の直轄化に取り組んでいた官僚からの上奏文が礼のもとに届きます。
そこには今後も続くであろう対明戦争の処理にあたっては、先に斉を建てたような間接統治策が望ましいこと
そのためには既に役目を終えた海進政策を過去のものとし、国力を大陸に集中すべきことが書かれていました。
礼はこの献策を了としました。
(Explorationアイディアを削除。
 Influenceアイディアを3つ目(外交併合コスト-25%)まで取得。
 その後1632年にコンプリートして、Influence+AdminisitativeのPolicyでさらに外交併合コスト削減)
さらに1622年、広域流通網の改革を進めたことで朝鮮の文化技術はさらなる発展を遂げました。
(Global Trade受容。Tech18/17/18。Offensiveアイディア取得)

1622年、礼は再び明に宣戦すると敵軍を蹴散らし、1625年に13州と987Dの賠償を条件に停戦します。

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もっと大きな成果を得ることは可能でしたが、あまりに急な拡大は統治が追いつかぬと判断したと言われています。
(外交枠が同盟2+属国2(菊池・斉)で満杯。Influenceの発展はまだ追いつかず)
さらに1628年、今度は海南島対岸のトンキンに宣戦。ホルチン部の時と同じく、明の参戦を呼び込み叩きました。

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そして1634年、みたび明に宣戦します。
明軍必死の抵抗も虚しくこの戦いは1年半ほどで終結を迎え、既に菊池氏領の直轄化を終えるとともに行政機構の効率化も果たしていた礼は、今回こそは大きな戦果を求めます。
明が各地に築いてきた要塞地域を中心に、特に豊かな11州割譲させ、また990Dを支払わせました。
礼は北方の要塞は直轄する一方、南方の2地域は越・閔として間接統治に委ねました。

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悍馬御しがたし

さらに1638年、礼はこれまで同様の方針を取って朝貢国の一角Dai Vietに宣戦し、明の国土をまたしても戦場へと変えます。
しかしこの戦いは礼にとって少々予定外の出来事をもたらします。
度重なる戦争で疲弊した明を侮ったチャガタイが単独で明に宣戦したのです。
知らせを聞いた礼は悍馬御しがたしと苦笑したといいます。

チャガタイが引き起こした明の混乱は朝鮮を非常に助けてくれましたが、チャガタイですら侮るほどに明の国力が低下した今、チャガタイを手助けしてやる理由はもはやありません。
明が勝つもよし、チャガタイが勝つもよし。
礼は一切戦争方針を変えず、最短で明軍に手を引かせるとDai Viet北方の3州を奪って停戦します。
朝鮮と停戦した明軍はすぐさま北へ向かい、結局1643年、チャガタイは膝を屈して明の朝貢国となりました。
これにより長らく明の民を苦しめ続けてきた遊牧民の侵略は止まりますが、既に離れた人心が再び皇帝を向くことはありませんでした。
(明のdisaster終息。しかし天命値は-0.12/月)
この結果を受け、礼は即座にチャガタイとの同盟を破棄しました。

 

1644年、礼は四度目となる明侵攻の令を発しますが、その3か月後、結果を見ることなく世を去りました。
81年に渡る生涯を明の打倒にかけ、見事に果たした末の死に顔は安らかだったと伝えられています。

なお、礼の業績としては対明戦の勝利にばかり注目が集まりがちですが、明への侵攻を開始した後も彼が大陸外への目配りを忘れず、日本全土の制圧とメキシコ領の拡大・安定化を成し遂げたことは忘れずにおきたいものです。
(存命中、日本には都合4度侵攻。またユカタン半島を中心に拡大していたKicheを朝貢国に)

 

次回:朴氏朝鮮 その4


添付ファイル: fileTRoC.jpg 208件 [詳細] filetonkin.jpg 220件 [詳細] fileresult.jpg 107件 [詳細] filereducingmandate.jpg 223件 [詳細] filenomadfrontier.jpg 124件 [詳細] filedeclarewar.jpg 141件 [詳細] filechagatai.jpg 196件 [詳細] filearmies1610.jpg 133件 [詳細] file1635.jpg 127件 [詳細] file1625.jpg 255件 [詳細] file1613.jpg 147件 [詳細] file1545.jpg 199件 [詳細] file3.jpg 118件 [詳細] file2.jpg 167件 [詳細] file1.jpg 121件 [詳細]

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Last-modified: 2017-06-25 (日) 11:58:12