AAR/大いなるもの、東方より

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there are conqeror.

おれの名前はメフメト。
世間では征服王メフメト2世と呼ばれている。

この異名が示すとおり、おれはオスマンの軍隊を駆って多くの地方を征服した。
コンスタンチノープル、チャンダル、ギリシャ、トラブゾン、セルビア、・・・

楽な道のりではなく、むしろ困難の連続だった。
だがおれは常勝だった。
おれの生涯は戦いに次ぐ戦い、勝利に次ぐ勝利、征服に次ぐ征服だった。
これからその話を物語ろう。

コンスタンチノープルの陥落

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Mehmed Second Fatih.

12歳でオスマン国のスルタンとなったおれには、一つの大志があった。
それは世界が羨む都市、コンスタンティニエを征服することだ。

ミッション「city of the world's desire」を選択し、CBを得て、宣戦布告の外交官をおくったが、
コンスタンティニエを守るために立ちはだかったのはビザンツだけではなかった。
その属国アテネ、スカンデルベク率いるアルバニアの反乱軍、そしてセルビア公国が相手となったのだ。

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だがこのことは想定内だった。
セルビアの釣り出しは、彼らがベオグラード、ペシュト、そしてウィーンへと通じる要衝にあったために行われた。
そう、おれはビザンツの阿呆がセルビアと同盟するのを待って宣戦布告したのだ。

2年間の攻城戦にコンスタンティニエはよく耐えた。
だが陥落は時間の問題だった。
1446年3月、ついにコンスタンティニエは陥落し、この難攻不落の都市はおれのものになった。

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コンスタンティニエの陥落。

白馬に跨ってこの世界都市へと入城したおれは、即座に「make constantinople capital」を実行し、
コンスタンティニエは基礎税収16のトルコ文化スンニ派の都市に生まれ変わった。
この首都は以後、ヨーロッパと東方世界の結び目として大きな役割を果たし続けることになる。

征服王が、そこに。

コンスタンティニエを征服したおれは、ギリシャをアテネ、アカエア、そしてモレアのビザンツに分割した。
ついでアルバニアのスカンデルベク*1を討伐してこれを併合する。
最後にセルビアだが、彼らのプロビをコア化するためのADMが勿体ないので彼らは属国化し、のち外交併合することにした。

おれは得意の絶頂だった。
次のミッションは「Conquer southen Greece」を選んだが、停戦期間があるためその間、まず小アジアのコアを回収することにした。
といって、アダナやドゥルカディル、つまりシリアと接するプロビを得てしまうと対マムルーク戦に忙殺されることになるから、
とりあえずはチャンダル侯国のみを併合しておいた。
軍を返してギリシャの三か国を併合した。
つぎはトレビゾンドのコムネノス家を征服した(「Conquer Trabizond」)。

膨張するオスマン国に危機感を抱いたキリスト教徒の連中は、ヴェニス、ハンガリー、ボスニア、ワラキアが中心となって包囲網を結成した。
だがこの包囲網にはオーストリアもフランスもポーランドも参加せず、決め手に欠いていた。
包囲網が広がらないと見るや、ヴェニスはいちはやくここから離脱した。
おれはそれを見るやいなや、「Vassalize Wallachia」のミッションを実行し、ワラキア公国に侵入した。
ハンガリーの武将ヤノシュ・フニャディ*2はキリスト教との面目を守ろうと、ワラキア地方まで出張ってきたが、オルタニアでこれを迎撃して粉砕した。
ハンガリーは強敵だったがおれたちの軍隊の規律ボーナスには勝てなかった。
ハンガリー王国は膝を屈し、ワラキア公国は力尽きてオスマン国に臣従を誓った。

つぎは東方のコア回収だった。
ミッション「Save the Turkish peope in Erzurum」を選んでから白羊朝と黒羊朝の連合を攻撃する。
黒羊朝の君主率いる大軍をエルズルムで撃破し、四年間の戦役ののち、同地のコアを回収した。
つづいて「Reclaim Karaman」を選んでからカラマン侯国を併合する。おれの軍隊は不敗で、精強無比だった。トルコ系土侯ではもう相手にならない。

ボスニア公はその間、ラグーザを征服し、ダルマチアをヴェニスから掠め取って、ボスニア「王国」を名乗って繁栄を謳歌していた。
だからこれを討ち果たすことこそがムスリムの義務というものだった。
ミッション「Conquer Bosnia」によってボスニア領全土にクレームを得ると、おれたちは数万の軍勢をボスニアに差し向けた。
自称ボスニア「王」はさっさと逃げ出し、ボスニアもまたおれのもとに征服された。

バルカンの征服をあらかた終えたおれは、目標を東に転じた。
そこにはアダナ、ドゥルカディル、クルディスタン、そしてアルメニアといった「未回収のトルコ」が広がっていた。
「Reclaim Adana」のミッションでアダナ(と同盟国のドゥルカディル)を、「Safegard Easten Anatolia」のミッションでクルドとアルメニアを回収したおれは、いまやかつての東ローマ帝国やルームセルジュークのように小アジアに屹立していた。

同じ頃、侮辱CBでナクソスを併合し、歴史的同盟国クリム汗国から独立していたザポロージェを外交手段で属国化したおれは、いまやエーゲ海と黒海というふたつの海をオスマン国の内海にしたことを誇らしく思っていた。
いまやこのふたつの海はおれのバスタブだった。だが闖入者がいる。要衝カッファとアゾフを抑えるジェノヴァ共和国がそれであった。

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エーゲ海と黒海、ふたつの海の覇者。

そこでおれはミッション「Conquer Kaffa」を利用してカッファとアゾフを奪取しようと試みた。
だがジェノヴァ共和国はリトアニア王国と同盟しており、神聖ローマ帝国圏内にいるため皇帝が出張ってくることもまた必然だった。
それでもそのような些細な事情を恐れるおれではなかった。
1480年、オスマン国とクリム汗国はジェノヴァ領土であるカッファとアゾフに侵入した。
即座にオーストリアとリトアニアがおれたちに宣戦布告、オーストリア大公は神聖ローマ皇帝であり、かつ教皇庁の御者でもあった。
翌1481年、オーストリアの手引きで十字軍宣言が発布された。のちに呼ばれるところの、ザポロージェ十字軍である。

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Crusade against US!

ザポロージェ十字軍の結末

エーゲ海と黒海の制海権を確保しているおれは、三波にわけて主力をクリミア半島に上陸させた。
十字軍どもは陸続とこの地に押し寄せてくる。決戦だ。

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戦力比。

最初の決戦はおれたちの勝ちだった。
相手の神聖ローマ皇帝フリードリヒとリトアニア王カジェミシュ・ヤゲローは敗走する部隊とともに這う這うの体で故国に逃げ帰った。
勝利、ジハード! いい響きだ。

だが相手方が態勢を立て直した二度目の決戦でおれの軍は後退を余儀なくされた。
敵の将軍は強く、士気顕揚で、おれたちの軍は最初のたたかいからまだ完全に補充がすんでいなかったから。
単純に数的劣位に置かれていたというのもあるだろう。
砲兵がいるから勝てると踏んでいたのだが。
こちらは海に二分され、相手は陸続きというのも大きかった。

なんにせよ敗走した。
敵は追撃してくる。
おれは全滅も覚悟した。
だが幸い、士気がわずかに回復しておれたちは数か月間、幾度も敗走しつつ全滅を免れていた。
そうこうするうちに敵も消耗してくる。
おれたちは海上輸送で傭兵を増援におくるといった具合で、形勢は逆転した。
いまやオーストリアとリトアニアは敗走し、おれたちが彼奴らを追っていた。

最初に和平に応じたのは、オーストリアだった。
敗北に打ちひしがれ、苦渋の表情で皇帝はおれたちとの白紙和平の証文にサインしたと伝えられている。

リトアニア王ははじめ和平を拒絶した。なんとなれば、彼らは戦争の主導権を握っていたから。
おれはカッファとアゾフを求めて戦勝点を稼ぐべく、リトアニア領土に進軍した。
キエフを占領し、敵首都ヴュルスを攻囲するとリトアニア王はさすがに音を上げた。

1486年、ついに十字軍の諸王は敗北を認めた。
カッファとアゾフがおれのものとなり、エーゲ海と黒海の覇権を脅かすものはいなくなった。

おれはキエフの駐屯地からコンスタンティニエに帰還すると途中、痛風がいたんで危篤になった。
おれは死ぬのか。だが悔いはない。
おれはコンスタンティニエを征服した。セルビアとアルバニアを服属させた。小アジアを統一し、ギリシャを併呑した。ワラキアを屈服させ、ボスニアを攻略した。そしてエーゲ海と黒海をわがものとした。
おれは征服者Conquerorとして、征服者Fatihとして、相応しい生涯をおくった。
だから悔いは残っていない。

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*1 ゲームでは5-5-5の君主、かつ5-5-5-1の将軍として表現されている。
*2 ゲームでは4-4-4-1の将軍として表現されている。

添付ファイル: file9.jpg 9件 [詳細] file8.jpg 9件 [詳細] file7.jpg 6件 [詳細] file6.jpg 10件 [詳細] file5.jpg 12件 [詳細] file4.jpg 18件 [詳細] file3.jpg 10件 [詳細] file2.jpg 15件 [詳細]

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Last-modified: 2019-06-18 (火) 20:02:37 (7d)