AAR/フランク帝国物語
前回:第一章 シャルル7世〜勝利王の外交政策〜

第二章 ルイ11世 ~慎重王のブリテン進出〜

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ルイ11世 慎重王(在位:1474-1520)

ブルゴーニュ侵攻

1474年8月14日、父であるシャルル7世の死を受けルイ11世がフランス国王として即位した。ルイ国王は父との約束を守り、ブルターニヌ・ブルゴーニュ両公国の全土を制圧するとブルゴーニュとはフランドルを独立国とする事で分離和平し、ブルターニュからは半島北半を割譲させる事でこの戦争を終結させた。ルイ国王はこの戦争に全面的に勝利したが、この勝利は戦前の父シャルル7世の外交努力なくしてはなり得なかったと宣い、シャルル7世を「勝利王として讃えた。ルイ国王は父との約束を尊守し、フランドルの独立を認めさせた後はブルゴーニュ北半を奪取している。これは当然大陸でのフランスの勢力拡大の意でもあるが、対岸のイングランド王国に対する牽制でもあった。ルイ国王は誰が見てもその振る舞いから分かる通り彼の父シャルル7世国王をこの上なく尊敬していた。先のイングランドとの戦争はシャルル7世が生まれるよりも遥か前から始められていたものではあったが、ルイ国王は父を悩ませてきたイングランドに対し強い邪念を抱いていたのは言うまでもなかった。ルイ国王はブレスト港を対イングランド侵攻の拠点とすべく要塞化を開始した。時を同じくしてルイ国王の後継者候補であったルイ=ヴァロワは女性との不祥事が発覚し教会から厳しい折檻を受けた。息子のルイは王位継承を辞退する旨も示したが、ルイ国王はこれを観念し、王位継承権の存続を認めた。

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この戦争の結果フランドルが独立し、フランスはブルターニュ半島北半を獲得した
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この不祥事でのルイ国王の寛仁な対応は息子ルイの弟であるシャルルとの間に不和を生むこととなる

イングランドのスコットランド侵攻

ルイ11世国王は父の政策であるネーデルラント方面での勢力伸張はもちろんのこと、対イングランド戦も想定し準備を進めていた。しかしそれはルイ国王にとってはあまりにも早すぎたのであろう。1476年3月25日、イングランド軍はブリテン島の統一を掲げて突如としてスコットランドに侵攻を開始した。ルイ国王は父の残したスコットランドとの同盟を遵守しこれを保護すべく対イングランド戦に乗り出した。しかしフランス海軍は北海で覇を唱えるイングランド王立海軍に立ち向かうにはあまりに貧弱であった。ルイ国王は陸軍に戦闘準備の命令は布告したもののブリテン島に上陸する術がなく、スコットランドがイングランドに征服されていくのをただ見守るしかなかったのであった。この戦争はスコットランドがその大半の地を失うことで和平となり、イングランドはグレートブリテンでの勢力を確固たるものとし、スコットランドとマンスターを残すのみとなった。ルイ国王はこの失態を悔やみ、以後イングランドに対する野心はより強固なものとなった。

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父の代から続くスコットランドとの同盟を忠実に守ったルイ11世であったが、イングランド海軍の前には成すすべがなかった。

フランス絶対主義の台頭

ルイ国王はイングランドに対抗しうる国力をつけるべくフランスの中央集権化により力を注いだ。1478年にはプロヴァンス王国を併合、1481年にはフランドルへ侵攻し、この国境地帯を奪取した。これによりフランス王国は百年戦争以前から勢力圏を主張していた地を全てその勢力下へと復刻させることに成功したのであった。直接的な政治面のみならず、国王は充実した大学教育や有能な市民を陸軍指揮官に抜栓するなど、柔軟な教育方針を取り入れた。しかしこのフランス王国の伸張を見て、東の大国オスマン帝国はフランスを強く敵視するようになった。これによりシャヤカ大帝の「カピチュレーション計画」は頓挫となった。

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ルイ11世の時代は外交面だけでなく国内も非常に豊かな時代を築き上げたといえる
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このフランスの台頭を見てオスマン帝国はこれを強く警戒している

ブルゴーニュ戦争

先の対フランス=オーストリア同盟との戦争でブルゴーニュ公国は大幅に疲弊していた。チャールズ狡猾公は戦後の復興に尽力したものの大きな成功は収められず、無念のうちに息を引き取った。続いて勇敢公ヘンリー2世がブルゴーニュ公に即位した。ヘンリー勇敢公も戦後復興のため内政の再建に尽力していたが、1484年にオーストリアがハンガリー西部の領有権を主張し侵攻を開始した事でブルゴーニュ公国は再び対フランス=オーストリア同盟との戦争に巻き込まれることとなる。ブルゴーニュ軍はフランス=オーストリア連合軍に次々と撃破され陸軍はほぼ壊滅状態となった。対フランス=オーストリア同盟との戦争はおよそ4年で終結したものの、この状況を好機と見たユトレヒトやアーヘンといった周辺国に宣戦を布告され、ブルゴーニュは滅亡の危機に瀕していた。こうした中ヘンリー勇敢公は公国を守り軍の士気を上げるため自ら戦場に立った。勇敢公はドイツ諸侯軍を各個撃破していったものの1491年6月3日、アーヘン軍の強撃の前に倒れ、後継者を残さずこの世を去った。ドイツ諸侯はこれを機にブルゴーニュから大幅に領土を奪取しようと画策していたが、これを阻止すべくフランス=オーストリア同盟が干渉しこの地はフランス・オーストリアの二国間で分割統治されることとなった。ルイ国王はオーストリアの分割案に不満を抱いていたが、この時フランスは対イングランド戦の最中であり東部国境の安全確保と同盟関係維持を優先し必要以上に敵対的な態度を取ることはなかった。なおハンガリー侵攻の際オーストリアはフランスが領有権を主張していたキャンブレイをブルゴーニュからフランスへ割譲させており、ブルゴーニュが脅威で無くなったのちもフランス=オーストリア同盟の有効性を示したと言える。

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予てより神聖ローマ帝国が領有権を主張していたCambrayをオーストリアはフランスに差し出した。これにより同国間の同盟の友好性が改めて認識される
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勇敢公はその最期までブルゴーニュの存亡をかけて戦った。しかしそれが仇となりブルゴーニュはフランス=オーストリア同盟の間に分割されるに至った。

ブリテン進出の始まり

1489年イングランドはマンスターを併合し、ブリテン島統一はスコットランドを残すのみとなっていた。これを強く警戒したフランス=カスティーリャ同盟は同年イングランド王国に対し宣戦を布告した。イングランド海軍は依然強力でありブリテン島への上陸を困難と判断したルイ国王はイングランドの同盟国であるアラゴン王国との戦線を重視した。フランスは陸戦での勝利を重ねイングランド王国が戦争継続を断念するまで耐える道を選択した。そしてついに1493年、イングランド王国はフランス=スペイン同盟に投降し、マンスター・コンウォールを独立させる事で和平した。さらにルイ国王はアラゴン王国からアラゴン州をカスティーリャに割譲させる事で、フランス=カスティーリャ同盟の堅実さを再確認した。フランスは戦中にマンスター・コンウォール両国にイングランドからの独立を保証する代わりに、フランスの勢力下に入ることを条件とすると約束しており、両国はこの約束を遵守した。これによりフランスはブリテン島侵攻への足がけを手にした。外交的には煌びやかなフランスであったが、宮廷内ではインフルエンザが蔓延しており、多くの死者が出ていた。息子のルイもインフルエンザに感染し、ルイ国王は最善の手を尽くすもついに息子は魔の手に落ちてしまった。教会はルイの弟シャルルを次なる後継者として歓迎したが、ルイ国王は息子の死を嘆き、イングランドの投稿まで息子の亡骸の前に伏していたという。

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コーンウォール並びにマンスターはフランスとの約束を遵守し、フランスの属国となることを承諾した

ルイ11世の大陸政策

ルイ11世国王の欧州大陸での領土拡大は極めて控えめなものであった。ルイ国王の治世下で始められた欧州大陸での侵攻は、フランドルからArtois・Ghintを、サヴォワからSavoie・Niceを獲得するのみであった。しかしこれは決してルイ11世が積極的な対外戦争に否定的な性格であったが故ではない。彼の目は専らブリテン島に向いているということもあったが、今や隣国と化したオーストリア大公国との同盟関係維持のためでもあったのだろう。

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ルイ11世はサヴォアからNiceを獲得しており、これは下る時代でイタリアへ勢力を伸ばすきっかけになった

アイルランド・北ブリテン侵攻

ルイ国王はその治世下で二度のブリテン侵攻を行った。以前にも述べたが、ルイ国王は亡き父シャルル7世国王を非常に尊敬しており、彼を苦しめていたイングランド王国は目の敵出会ったのだ。1449年にイングランドを大陸から完全に追い出したことを持って百年戦争の終結とするのが一般的であるが、この戦争はまだ終わっていなかったと捉えることもできるのではないだろうか。

アイルランド侵攻

海軍の軍拡も行ってきたルイ11世ではあったが、イングランド海軍にはまだ遠く及ばないと判断した国王は、その陸軍40連隊をアイルランド警備を名目にマンスター領に駐屯させていた。当初マンスターはこれを強く警戒し反対していたが、ルイ国王は次の対イングランド戦で割譲させる全てのアイルランド地域をマンスター領とすることを約束し妥協した。1501年4月7日、ルイ国王はイングランドに対し戦線を布告し、フランスのマンスター駐屯軍はアイルランドのイングランド領を占領し始めた。フランスの同盟国カスティーリャ・オーストリア及び、イングランドの同盟国アラゴン・モスクワを巻き込む戦争となったが、実際に戦闘が行われたのはアイルランド及びアラゴンのみであった。イングランドも30連隊以上の陸軍を数度に渡ってアイルランド島に上陸させたが、攻撃精神を身につけたフランス軍の前に連敗を喫した。やがて陸軍の統制を失い戦争継続を困難と判断したイングランドは1507年1月フランスに投稿した。しかしイングランドは未だブリテン島での覇権を主張し、フランス側の要求を完全に飲むことはなかった。同月11日、ルイ国王はUlster・Meathをマンスターへ割譲し、Ayrhireをスコットランドに返還する妥協案を提示し、イングランドはこれに同意した。

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北ブリテン侵攻

フランドル、ブルターニュ=サヴォア同盟への侵攻を完了させたルイ国王は再び対イングランドへ向けて準備を進めた。ルイ国王は再度スコットランドへ接近し、スコットランドの旧領奪還を約束する代わりにフランスの勢力下に入ることを条件とした。これを飲んだスコットランドを加え、1514年12月3日、スコットランドに駐屯していたフランス軍60連隊がイングランドへ一斉に侵攻を開始した。イングランド軍は必死の抵抗を見せたが急襲を受けたイングランド軍は態勢を整えられず規律が乱れていた。そして1517年5月12日、フランス軍のエセックスの戦いで追い詰めたイングランド主力部隊を殲滅し、この戦争の大勢は決した。ルイ国王は最期に良き同盟国であった証としてイングランド側で参戦していた敵国のポルトガルからカスティーリャへAlentejoを分離和平で割譲させたのち、1520年1月1日、新年を祝う歌の中で息を引き取った。フランス国王を継いだルイ11世の次男シャルル8世は同年スコットランドへその旧領を全て返還し、Connaughtをマンスターに割譲させることでこの戦争を終結させた。シャルル8世国王は亡きルイ11世は先立たれた前後継者であった兄のルイを溺愛し、自分は兄に比べて愛されていなかったと感じていた。フランス市民は前王ルイ11世を大いに讃えていたが、シャルル8世国王は前王をオーストリアを恐れ大陸での拡張を恐れた小心者と評し、「慎重王」と呼んだ。

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ルイ11世の外交手腕もシャルル7世に劣らないものであった。対イングランドの感情を煽ることでブリテン諸国を次々と勢力下に収めた。
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その46年間の治世は非常に煌びやかなものであったと人々は讃えた

おわりに

しゃやか=はーんの休日

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はーい。皆様お待ちかねしゃやか様の出番だよー。といっても本編解説は特にないよー。

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はい。ルイ11世殿下だよ。

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本当はオーストリアとの共闘中に暇してるフランス本国軍40連隊で神聖ローマ諸侯を美味しくいただこうと思っていたけど、Ver1.8からかな?皇帝と共闘中は神聖ローマ諸侯に宣戦できなくなったよ。地味に面倒だね。

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オーストリアが皇帝から退いてくれれば話は早いんですがねぇ。

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なおサヴォア戦はブルターニュを釣り出して領土を削って行ってるよ。だからブルターニュは1プロビになり下がってるけどまだ生かしてあるんだよ。ゆっくりイタリア政策の餌になっていってね☆

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れ・みぜらぶる・・・

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他にも何か変更点について言いたいことあったけど忘れちゃったよー。思い出したら次回のこのコーナーで書くよー。それじゃあ次回までゆっくりしていってね☆

第三章 シャルル8世〜温厚王の外交革命〜>AAR/フランク帝国物語/フランク帝国3


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Last-modified: 2014-12-05 (金) 08:15:00