AAR/偽史朝鮮

朴氏朝鮮 その2

朴暁(1553~1590)

貞心の死後、王位は息子・暁(ヒョ)に引き継がれます。
彼の内政・外交の手腕はお世辞にも高いとは言えませんでしたが、武技に優れさっぱりした性格の彼は民に慕われていました。(2/1/6。個性・Separatizm-5年)

 

待て、しかして希望せよ

彼が即位した1553年、朝鮮は既に世界屈指の実力を蓄えていました。
しかし朝鮮の宗主国たる明は世界一の大国。
その天命には一切の陰りはなく、歴代皇帝は次々と先進的な統治策を取り入れて官僚機構を掌握し、広大な国土を完璧に統治していました。
その豊かな国土が支える軍事力は質・量ともに圧倒的であり、朝鮮が単独で歯向かえる相手ではありません。
(Cerestial Reformをすべて達成した上で天命100。
 アイディアはEconomic、Trade、Offensiveをコンプリート。
 NIにPolicyをくわえれば規律15%まで可能。
 (と思い込んでいましたが、コメントでご指摘あったとおりEconomy+Offensiveは砲兵攻撃力+10%なので規律は110%までですね)
 傭兵も雇い放題の財力…)
一方で朝鮮の国力が増すとともに、要求される貢物も増えています(君主点12/年。Lv1アドバイザーひとり分・・・)。
朝鮮は次第に鬱屈を貯めこんでゆきました。
明の冊封体制下からは脱したい、しかし迂闊に明を刺激しては全ては瓦解する。
この難しい課題に、暁は生涯をかけて慎重に取り組んでゆきます。

 

敵の敵

16世紀の中ごろから、東南アジアにはそれまでとはやや毛色の違う風体の者たちが姿を現し始めていました。
インド洋寄りの小島に少しずつ入植を行っていた彼らは、聞けばインドよりさらに西の地に大きな勢力を持つ国の民だといいます。
その名をオスマンといいました。
さほど豊かとも言えない小さな島に入植しているだけと静観していた朝鮮王宮ですが、1553年、彼らが台湾に入植したとの報に驚くこととなります。

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李祹の時代以来手を触れずに来た台湾の地に蛮夷の進出を許すべきではない。
いや、いっそ全土に入植させたうえで地の利を生かして襲い掛かり、果実だけを掠め取ってしまうべきだ。
様々な論が上がりましたが、暁が選んだのは静観でした。
オスマンの台湾入植は朝鮮以上に明を刺激しているはずです。
これをきっかけに明とオスマンの戦争にでもなれば、朝鮮は漁夫の利を得ることができるというのが暁の考えでした。
一説によれば暁はオスマンとの同盟も検討したものの、オスマン側には東南アジア島嶼部を武力併合し続ける朝鮮への警戒心が強く断念したと伝えられています。

ただ暁の取ったオスマン静観策は思わぬ副作用も生みました。
スマトラ島の大半を領するパサイがオスマンと同盟を結び、これを知った暁はスマトラ島への進出を手控えたのです。
朝鮮商人はモルッカ諸島地域を交易の焦点と定めますが、マラッカ地域を収益拠点とできなかった朝鮮の交易網は非効率なものとならざるを得ませんでした。

 

マラッカ地域への進出を放棄した暁はこの地に利害関係を持つインドシナ諸国との同盟を模索します。
選んだ相手は同じく明の朝貢国であり、インドシナで勢力を拡大し続けていたアユタヤでした。
1569年、朝鮮は初めての同盟をアユタヤと結びます。
表向きは朝貢国同士の友誼を深めるとされたこの同盟ですが、明示されない仮想敵国があったことは明らかでしょう。

ayutthaya.jpg

 

統治改革

冒頭でも述べたように暁自身の内政手腕は決して高いものでははありませんでした。
しかし王は彼自身が優れている必要はありません。
臣下の優れた献策を受け容れる器があればよいのです。
海をまたいで広がる国土を統治する必要から、朝鮮では官僚制が発達していましたが、暁の時代に入ると官僚たちの力はますます強くなってゆきます。
これは結果として朝鮮の国力を高めました。
(1582年に国家ランクが帝国に。ただし未だ朝貢国ですから筆者の脳内では王国のままです。
 1586年、政体を管理君主制へ移行。収支やや改善)

一方、得意分野であった軍政では暁自身が改革を主導します。
これにより朝鮮軍は陸海ともに精強さを増してゆきます。(1570年、Qualityアイディア取得)

 

衆をもって寡を討つべし

決して得意とは言えない外交・内政に目を配りつつ、暁は歴代の王たちが手を付けてきた地域への進出を着実に遂行してゆきます。
暁の軍事の特徴は物量にものを言わせた確実な用兵でした。

【東南アジア】
オスマンと結んだパサイへの手出しは控えた暁ですが、東南アジア島嶼部の国は単独であれば朝鮮の敵ではありません。
テルナーテ征服を皮切りに(1555-56)、スンダ王国へは2度にわたって侵攻しジャワ島の大半を勢力下におきました。(1567-69、3州獲得。1582、2州獲得)
またボルネオ島の東部をクタイ領としていた事を改め、全島を直接統治下に置きます。
東南アジアでも特に豊かなこの2島の同化に暁は心を砕きました。(ジャワ文化、ボルネオ文化受容。IslamのHarmonise)

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(図は暁の時代の文化勢力図とジャワ島の勢力図)

【カリフォルニア成立 】
永昌の時代に慶州で花開いた植民地主義でしたが、人々は近くて豊かな東南アジアにばかり入植し、そのきっかけとなった新大陸への植民はなかなか進みませんでした。
貞心が東南アジア征服の橋頭保とするためにこの傾向を奨励したことの影響も大きかったでしょう。
細々と続いた新大陸への植民ですが、暁の時代に転機が訪れます。
朝鮮の入植民と現地住民との間で起きた争いをきっかけに、朝鮮はチヌーク族を征服して彼らの土地をわが物としました。
これにより勢力圏が広がった新大陸の植民者たちに暁は自治を認め、1566年、植民地国家カリフォルニアが成立しました。

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(南に見える緑の1州も1575年に征服)

【日本侵攻】
先代・貞心が唯一苦戦したのが日本との戦いでした。
統制の取れた日本軍の精強さは当時の朝鮮軍を大いに苦しめたものです。
しかしこの戦いの結果、日本の財政は破綻に追い込まれていました。
立ち直りきれていない日本に暁の物量戦が襲い掛かります。

暁はその治世において三度日本へ侵攻し、都合18州を割譲させました。
彼は九州の統治を菊池氏に委ねる一方、上杉氏にはその領地を返上させました。

japan.jpg

 

時は静かに訪れる

気付けば即位から30年が過ぎ、暁は66歳を迎えていました。
冒険は避けながら慎重に国力を底上げしてきた暁のもとに、1583年、アユタヤが明の冊封下から脱したとの知らせが届きます。
(実際は偶然気付きました)
廷臣たちは即座に続くべしと色めき立ちますが、暁の動きは腰の重いものでした。
暁は明への朝貢使の派遣を取りやめる一方、明王宮内の要職には非公式の使者をたびたび派遣(Improve Relation)、
また台湾全土に入植を済ませたオスマンを公式に非難して彼らに敵愾心を燃やしていた明の心証をやわらげます。
(オスマンをライバル指定。実際はアユタヤと同盟する前後に行った)

1585年、2年続けて朝貢の使節を送らなかった朝鮮に対し、明の側から冊封の撤回が通告されましたが
これらの努力の甲斐あって明との関係は即座に荒れることなく、比較的良好な状態を維持することに成功します。

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念願であったはずの冊封下からの脱出を果たした朝鮮ですが、劇的とは言い難い事態の進展に誰もが狐につままれたようだと顔を見合せたといいます。
しかしながら明の天命は未だ翳りなく、その国力は圧倒的です。
明を上回るのが先か、それとも大軍の前に再び膝を屈することになるのか。
朝鮮が立っていたのはまさに歴史の分水嶺であり、そこを暁のように慎重な国王で迎えられたことは朝鮮史の僥倖と呼んでいいのではないでしょうか。

1590年、暁は73歳にして世を去りました。

 

<冊封を脱した際の国家勢力図>
(列強第2位ではあるけれど)
gp1585.jpg

(天命。まだプラス・・・)
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(国家概観。資金力・・・朝鮮の収支はギリギリ黒字レベル)
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(陸軍力。明はQuantityを取っていない・・・)
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(海軍力。互角だが、決定力にはならない)
navies.jpg

 

次回:朴氏朝鮮 その3


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Last-modified: 2017-06-21 (水) 11:15:12