AAR/華麗なる一族

第4章 王錫と磔刑像

マティアス一世の即位

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マティアス一世

マリア=テレジア一世は夫のロレーヌ公と仲睦まじく添い遂げ、16人もの子をもうけました。
神聖ローマ帝国初の女帝として辣腕を振るった彼女の後を継いだのは長男のマティアス一世です。
マリア=テレジア一世が抜かりなく選帝侯の支持をしっかり取り付けておきましたし、マティアス一世は男子であったので継承はとてもスムーズに進みました。

マリア=テレジア一世はオーストリア継承戦争及びブルゴーニュ公領とハンガリー王領をオーストリア大公領の統合といったように主に内政面に力を入れ、また大きな成果を上げましたが、マティアス一世はハプスブルクの外に目を向けます。
マティアスは曾祖父にあたるレオポルト八世に強い憧れを抱いており、ハプスブルク家領の拡大による栄誉を強く求めたのでした。
しかし、神聖ローマ帝国内で諸侯から領地を取り上げて反発を買うのは避けたいところです。

マティアスが標的としたのはフランスでした。これには彼の個人的な恨みも関係していると言われています。
というのも、マティアスはマリア=テレジア一世の第四子として生を受けたのですが、それまで三人女子が生まれたことに対してフランスのフランソワ一世が「オーストリアはスカートしか履けない」と言って馬鹿にしたという話を聞いていたからです。
母の継承に難癖をつけて領地を奪おうとしたとか、今は亡きバイエルン公に帝位を奪わせようとしたとか、彼がフランスについて聞かされた逸話はろくなものがありませんでした。
神聖ローマ帝国皇帝として見ても、いまだに最大の仮想敵国はフランスでしたし、フランス相手の輝かしい勝利であればレオポルト八世に少しでも近づける気がしたのです。

彼は旧ブルゴーニュ公領と国境紛争が起きていたリヨンの支配権を求めてフランスに宣戦布告しました。

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オーストリアは同盟国スペインとの挟撃の成果もあって、首都パリをも陥落させる全面勝利に酔います。
マティアス一世はその治世中に大きくフランスから領土を削り取り、皇帝の威信を高めたのでした。

シュマルカルデン戦争

さて、マティアス一世はフランスとの対外戦争だけに注力していたわけではありません。
歴代当主によって先送りにされてきた問題、すなわち宗教改革について本格的な解決を志すことにしたのです。

これまで歴代ハプスブルク当主たちはカトリック信仰の擁護に努めたものの、ハプスブルクの家領外で積極的にプロテスタント弾圧をすることはありませんでした。
レオポルト八世がルターの処刑を見送りましたし、レオポルト九世はマリア=テレジアのローマ王即位でプロテスタント問題まで手を回す余裕がなく、マリア=テレジア一世は継承戦争後のブルゴーニュ公領及びハンガリー王領の統合に力を注いでいたので優先順位が必ずしも高くなかったのです。

オーストリア領内でも新教徒たちの勢いが強くなり各地で蜂起が起きたこともありましたが、マティアス一世の時代にはほぼカトリックによる宗教統一が確立されていました。
これに安心してしてしまったのもあり、ハプスブルクの歴代当主たちはプロテスタント信仰が浸透する速度及び深度を過小評価していたことは否めません。

しかし、北ドイツではカトリックが対抗宗教改革を始めた後もプロテスタント信仰は広がり続けていたのです。
とりわけブランデンブルク辺境伯及びライン宮中伯(プファルツ選帝侯)がプロテスタントに改宗した影響は大きく、これに倣った諸侯も多くありました。

マティアス一世は帝国内をカトリックで統一すべしという考えを強く持っていました。
彼個人の資質ももちろん影響していましたが、カトリックに対する強い想いはハプスブルクの伝統でした。

これは、初代ルドルフが戴冠の儀式の際にトラブルをうまく切り抜けたことに起源があります。
儀式に必要な王錫が見つからかった時にルドルフの皇帝即位を面白く思わない諸侯は儀式を妨害する素振りを見せたのですが、ルドルフは「主が血をもって贖われたこの像ほど、帝国の神聖な式典を執り行うのに相応しいものがありましょうか」と述べキリストの磔刑像を手に取り、とっさの機転を利かせたのです。

このエピソードはルドルフの深い信仰心を物語るものとして広く流布されていましたし、ハプスブルクはキリスト教の守護者であり、神の加護を受けているからこそ帝位を授かり、継承し続けていくことができるのだという信念はハプスブルク家全体に広く浸透していました。

マティアス一世がハプスブルクの領内だけでなく、帝国内でプロテスタントの信仰の弾圧を始めると当然ながら激しい抵抗が起こりました。
ブランデンブルク辺境伯、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ヘッセン方伯そしてハンザ同盟が反カトリック・反ハプスブルクを旗印とするシュマルカルデン同盟を結成し、叛旗を翻したのです。

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マティアス一世は苛烈な態度で臨みました。
途中大きな犠牲を払いながらも、ひとつひとつ諸侯を脱落させ、カトリックへの改宗を迫りました。
領主が改宗を拒否するならば、カトリックを信仰するもの、もしくはカトリックへの改宗を受け入れるものに領地の管轄権を移動させたのです。

最終的にブランデンブルク辺境伯はカトリックへの改宗を受け入れ、ヘッセン方伯は甥にその地位を譲らされ、ハンザ同盟でもカトリック教会から没収されていた財産の返還を約束させられました。
プロテスタント諸侯を一度に相手にしても問題ないくらいハプスブルク家の軍事力は強大だったのです。
領土の維持よりも自分個人の財産に関心があった領主たちは次々と属国化を志願し、彼らの領地はオーストリア領に併合されていきました。

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1590年

マリア=テレジア二世の即位

マティアス一世は帝国の宗教統一まであと一歩のところまで迫っていましたが、それを成し遂げるだけの時間を神は与えてはくれませんでした。
彼は男子に恵まれなかったので後を継いだのは長女のマリア=テレジアでした。
かのマリア=テレジア一世と同名の少女は以後マリア=テレジア二世と呼ばれることになります。

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マリア=テレジア二世

彼女の後世の評価は見るものによって大きく異なるものになります。
すなわち、政治的な業績に目を向けるのか、文化・芸術面に光を当てるかの違いです。

まず、マリア=テレジア二世は一人の人間としては大変魅力的でした。
教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」と書き残し、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」と後に回想しています。
つまり、マリア=テレジア一世のように整った美貌とは異なりましたが、見るものを惹きつける愛らしさを備えていたのです。

しかし、彼女は一国の主、特に神聖ローマ帝国の女帝としては大きな問題を抱えていました。
マリア=テレジア一世の夫ロレーヌ公フランツの遺伝を強く受けたようで、大変な遊び好きであり、政治にはさして興味を抱かなかったのです。
彼女は壮麗な宮殿を建設し、芸術文化人と広く交流し、15世紀初頭には田舎の地方都市に過ぎなかった頃が想像しがたいほど、ウィーンは芸術及び文化の一大拠点となりました。

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一方、政治については自覚することなく多くの失態を犯してしまいます。
それが大きな波紋を呼んでしまうことを彼女は知る由もありませんでした。

マリア=テレジア狂想曲

きっかけは些細なことでした。
マリア=テレジア一世が即位直後にハンガリー議会に乗り込んで軍の派遣と財政援助を勝ち取ったことは帝国内で広く知られていましたが、それ以来ハンガリー軍は帝国軍の基幹部分を構成していました。
ハンガリー人は「我らが女王」の近衛部隊を務めることを誇りにし、またマリア=テレジア一世もことあるごとにハンガリーを訪れ、感謝の意を生涯示し続けました。

マリア=テレジア一世がプロテスタント弾圧に消極的だったのは当時のハンガリー貴族の中に少なからずプロテスタント信仰者がいたからだとも言われています。
行政機構としてはオーストリアに統合されたものの、マリア=テレジア一世は「ハンガリー女王」の称号を生涯名乗り続けましたし、ハンガリー領に派遣する役人にはできる限りハンガリー語に習熟したものを選択したといいます。

しかし、そんな苦労を知る由もないマリア=テレジア二世は側近がハンガリー視察にいくように促すと「そんな遠い田舎にわざわざ行きたくない」と発言したのです。
それだけならまだよかったのですが、たまたまその場にいたフランス大使がこれを大々的に広めたため、ハンガリー人たちに広く知られることになってしまったのです。
この発言はかのマリア=テレジア一世を支え、最も忠誠を尽くしたのは自分たちだと自負するハンガリー人たちの自尊心を深く傷つけ、怒りに身を震わせるに十分でした。
彼らはマリア=テレジア二世の退位を求めて一斉に蜂起します。

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これに慌てたのが、ウィーン政府です。
蜂起した民は軍隊でなんとか鎮圧しましたが、不満は簡単に収まりません。
税の徴収を暫定的に削減したり、ハンガリー貴族の特権を強化したりすることを余儀なくされました。

小麦が不作で価格が暴騰し貧民が飢えに苦しんだ時に流れた噂も彼女の評判を大きく落としました。
噂というのは、国民が飢えに苦しんでいるという上奏に対し、マリア=テレジア二世が「それならブリオッシュ(お菓子)を食べるように」と答えたというものです。
今日の研究ではこれは彼女自身の発言ではないということがはっきりしていますが、「マリア=テレジア二世ならいかにも言いそうなことだ」と多くの人が思ってしまったことが問題でした。

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これをきっかけに農民暴動が勃発したとき大臣たちは頭を抱えました。
実際のマリア=テレジア二世は孤児たちが苦しんでいると聞くと宮廷費を削減して寄付するなど心優しい側面を持っていたのですが、そうした彼女の実像とは離れたところで評判が落ちたのにはハプスブルクの隆盛を憎々しく思っていたいくつもの勢力の暗躍があったと言われています。

混乱はこれにとどまりませんでした。
プロテスタント信者が多く、とりわけ不満が大きかったボヘミアはハプスブルクの支配からの離脱を宣言したのです。

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ウィーン中央政府はボヘミア領を次々と占領しましたが、いくつかの州をハプスブルク家の直轄領に組み込むにとどまり、半世紀以上続いた同君連合を回復するまでにはいたりませんでした。
これは自分の領内で殺し合いが起きていると聞いた彼女が珍しく政治に関心を寄せ「ただちに攻撃を中止するように」と命令したからでした。

こうした国内の混乱に対して、ウィーンの中央政府は、いかにも使い古された、しかし効果的ゆえにずっと使われ続けている解決策に頼ることにしました。
すなわち外征による華々しい勝利を求めたのです。
標的となったのはまたもフランスでした。

ハプスブルクを失墜させるためにあらゆる手段を尽くしてきたこの国が結果的に自ら首を絞める結果になったのは皮肉としか言いようがありません。
そして、ハプスブルク家はマティアス一世の治世以上にフランスから領土を削り取ったのでした。

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1621年

彼女の治世は、君主が多くの失態を演じても揺るがないほどにハプスブルク帝国全体の基盤が強固になった証左と言えるかもしれません。
ハプスブルク家の解釈では、それほどに強い神の加護を受けている、ということになるでしょう。

第5章 プルス・ウルトラ


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Last-modified: 2014-10-06 (月) 22:13:56