[[AAR/Gott Mit Uns]]

**フランスの小間使い [#l5020de4]
ヨアヒム2世が死去し女公ミリアムがプロイセン公となると、彼女はすぐさまリトアニアと共にボヘミアへ宣戦した。
拡大により軍を質・量ともに強力なものとしたプロイセンに負ける要素は無く、

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三倍弱の損害を与えて講和する。
しかし、この戦争の後は自国の国益のための戦争が停滞する。というのも、
1623~ フランスのベルン侵略
1626~ フリースラントのブレダ侵略
1630~ フランスのブルターニュ侵略
と、同盟国の参戦要求に応え続けていたためである。
ベルン侵略においてはオーストリアが敵であったために得るものもあったが、他は完全に無益であった。
それでもまだプロイセンは孤立するには弱すぎたため、要求に応じざるを得なかったのだ。
結局ミリアムは新たな戦果を挙げることなく死去し、
跡を継いだ名君・フリードリヒ=ヴィルヘルム1世も優秀な人材の性か、数年で命を落とす。

フリードリヒ=ヴィルヘルムの同名の息子は幼少であったので、公妃フレデリカが摂政となり実権を握った。
彼女の治世でプロイセンはかつての盟友・ザクセンの大半を飲み込み、更にハンブルクをも手に入れんとする。
しかしその拡大の裏では、着々と対プロイセン包囲網が形成されつつあった…

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開始約200年後の地図。オーストリアの覇権は崩壊し、北イタリアとハンガリー西部を失陥する。
後者を征服したオスマン帝国はさらに北、旧ポーランドへと侵攻を開始した。


**懲罰戦争 [#ed16f289]

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ハンブルク戦ももう終わろうかという頃に即位したフリードリヒ=ヴィルヘルム2世。
まずは先代から続く戦争を勝利の内に終わらせ、周囲の緊張の緩和を試みる。
周辺諸国を同盟国との合計軍事力で牽制しつつ関係改善を狙うが、ここで厄介な事態が発生する。
フランスのカスティーリャ侵攻。
プロイセンも嫌々ながらこれに応じ、ミラノ等も合わせた総軍勢は二十五万にものぼり、数の上では圧倒していたものの、
カスティーリャの広大な植民地ゆえに長期戦が予想されていた。
プロイセンも嫌々ながらこれに応じる。ミラノ等も合わせたフランス側の総軍勢は二十五万にものぼり、数の上では敵を圧倒していたものの、カスティーリャの広大な植民地ゆえに長期戦が予想されていた。

そしてこの隙を自由都市メミンゲン市長は見逃さなかった。

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メミンゲン市を筆頭に、アーヘン・アウグスブルク・ボヘミア等による懲罰戦争が布告された。
カスティーリャ戦に忙しいフランスは参戦を拒否、それを見たリトアニアもプロイセンを見捨てる。
敵の数はおよそ三倍。今こそプロイセンの軍質を見せるときである。フリードリヒ=ヴィルヘルム2世は全軍を集結させ、各個撃破を命じた。

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各方面に分散していた包囲網軍は開戦から僅か三か月で五万の兵力を失うも、やはり数的にプロイセンが明らかに劣勢であることに違いは無かった。
包囲網はおよそ半年後にはブレダ国境付近に八万の軍を集結させ、クレーフェを包囲していたプロイセン軍に攻勢をかける。

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次々に送られる敵増援にデルフィンガー将軍の下でプロイセン軍は奮闘。
七か国から集められた八万の軍勢を五万を以て撃退する。
その後も各所で会戦に勝利しつつ、懲罰戦争の開始から三年後、賠償金を条件に講和する。

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自軍損害およそ十万に対し敵軍損害およそ三十万。講和条件がやや悪いとはいえ、軍量の差を鑑みれば大勝利である。
なお、戦後には普仏同盟が再締結されている。

[[AAR/Gott Mit Uns/第四章 絶対主義の時代 後編]]に続く

TIME:"2019-06-05 (水) 14:32:55"

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